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教皇の意向:子を失った親 (11月)

年間第二主日 A年(1/15)

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この方こそ神の子であると証ししたのである。

ヨハネ1:34
集会祈願

🌸 第一朗読 (イザヤ49:3、5-6)

イザヤの預言
3「主は」わたしに言われた
あなたはわたしの僕、イスラエル
あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
5主の御目にわたしは重んじられている。
わたしの神こそ、わたしの力。
今や、主は言われる。
ヤコブを御もとに立ち帰らせ
イスラエルを集めるために
母の胎にあったわたしを
御自分の僕として形づくられた主は
6こう言われる。
わたしはあなたを僕として
ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。
だがそれにもまして
わたしはあなたを国々の光とし
わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

🌸 答唱詩編 詩編40 典54 ①②③

🌸 第二朗読 (一コリント1:1-3)

使徒パウロのコリントの教会への手紙
 1神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、 2コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。 3わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

アレルヤ唱 典271 2A

🌸 福音朗読 (ヨハネ1:29-34)

ヨハネによる福音
 29〔そのとき、〕ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。 31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」 32そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 降誕節が終わり、年間の季節に入ったが、今日はなぜか、今年読まれるはずのマタイではなく、ヨハネから福音が読まれた。それも、主イエスの公生活が始まる前の、洗礼者ヨハネとイエスの出会いの場面である。共観福音書では、イエスの活動は、ヨハネが捕らえられてから、とされているが、ヨハネ福音書は、あえて、イエスと洗礼者ヨハネの出会い、さらには、洗礼者を通して、最初の弟子たちが主のもとに導かれたことを記している。それは、洗礼者ヨハネが、メシアの到来にあたって、欠かすことのできない「証し人」だからであろう。
 ヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネが主を「知らなかった」ことを強調する。人間的な認識について言っているのだろう。その知らなかった方を知るようになったのは、洗礼者に恵まれた不思議な体験によるとされる。「わたしの後から一人の方が来られる。その方はわたしにまさる。わたしより先におられたからである。・・・わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイエスラエルに現れるために、わたしは水で洗礼を授けに来た」と。そしてヨハネは証しする。
 ヨハネの証しは、彼が学んで理解し、祈って悟ったことではなく、文字通り、自ら体験したことを証言することにある。だから、しつこいように、「わたしは見た」、と繰り返す。「わたしは“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった」と。さらに、「わたしをお遣わしになった方が、“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が聖霊によって洗礼を授ける人である」と言われ、「わたしはそれを見た」と。
 福音は、こうした主を見た人の経験をもとに記されたものである。ヨハネ福音書は、特に、その点を強調する。それが証しの本質―見たこと、聞いたこと、触れたことを告げるーだからであろう。福音書と同一の著者と思われるヨハネの手紙の著者も、まさに、その点を強調している。「証し」(martyria)と言う言葉は、「殉教者」(martyr)のもとになる言葉である。殉教者は、まさに、自分が体験したことをもって、証しする人のことである。単なる信念や主張ではなく、自ら体験したことに基づいて、主を、そして、人となられた神の子を証しするのである。主を信じ、洗礼を受けた人は皆、証し人であり、自らの体験した主の働きを、教会の証しにあわせて人々に告げる使命を受けている。それは、人の目に触れる不思議な外的・身体的経験ばかりでなく、むしろ、人の目につかずとも、内的に変えられる体験をも意味する。自分の中に、自分の力を超えた力の働き(聖霊)により信仰、愛、希望が強められ、深められる経験を意味する。これこそが、矛盾に満ちた人間の現実の中に、主が今も生き働いておられることを示すものではないか。
 年の初めにあたって、弱く罪深いわたしたちの中に来られ、人となって苦しみを受け、死を通して復活の命に入り、今も聖霊において生き、働いておられる主を証しする恵みが与えられるよう祈ろう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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